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登呂遺跡はなぜ教科書から消えた?理由と歴史的価値を解説

かつて「弥生時代といえば登呂遺跡」と習った方は多いのではないでしょうか。

静岡県にある登呂遺跡は、日本で初めて弥生時代の水田跡が発見された場所として、長年にわたり歴史の教科書に掲載されてきました。

しかし近年、教科書から登呂遺跡の記述が消えつつあるという現実があります。

なぜ、あれほど有名だった遺跡が教科書から姿を消しているのでしょうか。

この記事では、登呂遺跡が教科書から消えた理由を詳しく解説するとともに、遺跡の基本情報や歴史的価値、吉野ヶ里遺跡との違いについても紹介していきます。

登呂遺跡の「今」と「これから」を知ることで、弥生時代への理解がより深まるはずです。

目次

登呂遺跡が教科書から消えた理由とは?

登呂遺跡が教科書から消えつつある最大の理由は、弥生時代の研究が大きく進展したことにあります。

かつては登呂遺跡だけで弥生時代を語ることができましたが、現在では多様な遺跡の発掘により、弥生時代の姿がより複雑で多面的なものとして理解されるようになりました。

吉野ヶ里遺跡の発掘で弥生時代の研究が大きく進展した

1980年代に佐賀県で本格的な発掘調査が行われた吉野ヶ里遺跡は、弥生時代研究に大きな転換をもたらしました。

吉野ヶ里遺跡からは、集落を守るための環濠や、剣が刺さった人骨などが出土しています。

これらの発見により、弥生時代にはすでに争いや階級社会が存在していたことが明らかになったのです。

また、福岡県の板付遺跡からは国内最古とされる水田跡が見つかり、稲作の起源についても新たな知見が加わりました。

こうした発見が相次いだことで、登呂遺跡だけでは弥生時代の全体像を説明できなくなったのです。

「弥生時代=稲作」だけでは語れなくなった

登呂遺跡は「弥生時代といえば水田稲作」というイメージを定着させた遺跡として知られています。

しかし現在の弥生時代研究では、稲作だけでなく、戦争、階級社会、祭祀、交易など多角的な視点から時代像が描かれるようになっています。

静岡市観光交流文化局の担当者も「研究が進み、多様な弥生観が出てきた」と背景を語っています。

弥生時代を理解するうえで、稲作の始まりだけでなく「むらからくにへの変化」を学ぶことが重要視されるようになったのです。

教科書会社の編集方針と学習指導要領の変化

教科書から登呂遺跡が消えた背景には、教科書会社の編集方針も関係しています。

現在使われている中学校の社会科教科書のうち、本文に登呂遺跡の記載がないと回答した会社は8社中5社にのぼります。

小学校でも最大手の東京書籍は登呂遺跡を掲載していません。

東京書籍の広報担当者は「学習指導要領が『農耕の始まり』や『むらからくにへの変化』を理解するよう求めている点を考慮した」と説明しています。

同社は2000年版の小学校教科書まで登呂遺跡を掲載していましたが、その後は見送られる形となりました。

登呂遺跡とは?基本情報をわかりやすく解説

登呂遺跡について詳しく知らない方のために、基本的な情報を整理しておきましょう。

いつの時代の遺跡なのか、どこにあるのか、いつ発見されたのかという基礎知識を押さえることで、遺跡の価値がより理解しやすくなります。

登呂遺跡は何年前の遺跡?弥生時代後期・約2000年前の集落

登呂遺跡は、今からおよそ2000年前の弥生時代後期に営まれた集落の跡です。

西暦でいうと1世紀ごろにあたり、稲作を中心とした農耕生活が行われていました。

遺跡からは12棟の住居跡、2棟の高床倉庫跡、そして約8ヘクタールにおよぶ広大な水田跡が発見されています。

集落は弥生時代後期から古墳時代まで続きましたが、その間に2回の大きな洪水があり、壊滅的な被害を受けたことがわかっています。

現在、遺跡公園で復元されているのは、1回目の洪水が起こる前の最盛期の姿です。

登呂遺跡はどこにある?静岡県静岡市駿河区の場所とアクセス

登呂遺跡は静岡県静岡市駿河区登呂五丁目に位置しています。

JR静岡駅南口からバスで約10分、「登呂遺跡」バス停下車すぐの場所にあります。

車でアクセスする場合は、東名高速道路の静岡ICまたは日本平久能山スマートICから約10分です。

遺跡南側には50台分の有料駐車場が完備されているため、自家用車での来訪も便利です。

遺跡公園自体は24時間オープンしており、入場料は無料となっています。

隣接する登呂博物館の開館時間は9時から16時30分までで、月曜日が休館日です。

登呂遺跡はいつ発見された?1943年の軍需工場建設がきっかけ

登呂遺跡が発見されたのは、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)のことです。

戦闘機のプロペラを製造するための軍需工場を建設する際、工事中に土器や木製品が偶然見つかりました。

同年7月11日には毎日新聞が遺跡の発見を報道し、全国的な注目を集めることになります。

戦時中であったため短期間の簡易な調査しか行われませんでしたが、住居や倉庫、水田の跡が土中に残っていることが確認されました。

発見から80年以上が経過した現在も、登呂遺跡は弥生時代を代表する遺跡として多くの人々に親しまれています。

登呂遺跡は何がすごい?歴史的価値と功績

教科書から消えつつあるとはいえ、登呂遺跡の歴史的価値が失われたわけではありません。

むしろ、日本の考古学史において極めて重要な位置を占める遺跡であり、複数の観点からその功績を評価することができます。

日本初の弥生時代の水田跡を発見した遺跡

登呂遺跡の最大の功績は、日本で初めて弥生時代の水田跡を発見したことです。

水田には用水路やあぜ道が整備され、1,000〜2,000平方メートルの区画に分けられていたことがわかっています。

矢板と呼ばれる先のとがったスギの板で補強された跡も見つかり、当時の土木技術の高さを物語っています。

さらに水量を調整するための堰も設置されており、イネの成長に合わせて水位を調節する農法がすでに行われていたことが判明しました。

この発見により「弥生時代といえば水田稲作」というイメージが日本中に広まったのです。

戦後日本考古学の出発点となった学術的意義

登呂遺跡の発掘調査は、日本考古学の大きな転換点となりました。

1947年から始まった本格的な調査には、考古学者だけでなく、地理学、動植物学、建築学など多分野の専門家が参加しています。

このような総合的・学際的なアプローチは日本初の試みであり、その後の考古学調査の基本となりました。

また、登呂遺跡の発掘をきっかけに日本考古学協会が発足するなど、学術的な組織体制の整備にも貢献しています。

戦前の「神話に基づく歴史」から「科学的な根拠に基づく歴史」への転換を象徴する遺跡でもあるのです。

敗戦後の日本人に希望を与えた国民的シンボル

登呂遺跡の発掘は、敗戦で傷ついた日本人の心に希望を与えました。

戦後の本格調査には研究者だけでなく、多くの学生や一般市民がボランティアとして参加しています。

NHK静岡放送局は「今週の登呂」と題して毎週発掘の進捗を報道し、全国から応援の手紙が届くほどの反響がありました。

2000年以上前に高度な稲作文化を持っていたという発見は、日本人の文化的アイデンティティを再確認させるものでした。

登呂遺跡は単なる歴史的遺産ではなく、戦後日本の再生を象徴する国民的シンボルだったのです。

1952年に弥生時代の遺跡として初の特別史跡に指定

登呂遺跡は1952年(昭和27年)に国の特別史跡に指定されました。

特別史跡とは、文化財保護法に基づき「学術上の価値が特に高く、我が国文化の象徴たるもの」と定義される最高ランクの史跡指定です。

弥生時代の遺跡として特別史跡に指定されたのは、登呂遺跡が初めてのことでした。

現在、全国で1,881件が史跡に指定されていますが、そのうち特別史跡はわずか63件にすぎません。

割合にして3.3%という非常に狭き門であり、登呂遺跡の価値の高さを物語っています。

2016年には出土品775点が重要文化財にも指定されました。

登呂遺跡と吉野ヶ里遺跡の違いは?比較で理解する

登呂遺跡と吉野ヶ里遺跡は、どちらも弥生時代を代表する遺跡ですが、伝えてくれる情報には大きな違いがあります。

両者を比較することで、弥生時代という時代の多面性がより明確に理解できるでしょう。

登呂遺跡は「稲作集落の暮らし」がわかる遺跡

登呂遺跡の特徴は、弥生時代の一般的な農村集落の暮らしを詳細に知ることができる点にあります。

住居跡や高床倉庫跡が発見されているだけでなく、田下駄や鍬、鋤といった農具も多数出土しています。

高床倉庫には湿気を防ぐための工夫や、ネズミの侵入を防ぐ「ねずみ返し」が設置されていたことも判明しました。

人々が米を甕で煮て食べていたことは、土器の内側に残った焦げ付きから推測されています。

登呂遺跡は、当時の人々の日常生活を細部にわたって教えてくれる貴重な遺跡なのです。

吉野ヶ里遺跡は「争いと階級社会」がわかる遺跡

一方、吉野ヶ里遺跡は弥生時代の政治的・社会的側面を伝えてくれます。

集落の周囲には外敵から身を守るための環濠(かんごう)が巡らされ、防御施設としての機能を持っていました。

剣が刺さった状態の人骨が出土したことから、当時すでに戦争が行われていたことが証明されています。

また、墓の規模や副葬品の違いから、社会に階級が存在していたことも明らかになりました。

吉野ヶ里遺跡は弥生時代の約700年間にわたる変遷を知ることができ、「むらからくにへ」の発展過程を物語る遺跡です。

教科書で吉野ヶ里が採用されるようになった背景

現在の学習指導要領では、弥生時代について「農耕の始まり」だけでなく「むらからくにへの変化」を理解することが求められています。

この観点から見ると、吉野ヶ里遺跡は戦争、階級社会、政治的統合といった要素を学ぶのに適した教材といえます。

東京書籍をはじめとする教科書会社は、こうした学習指導要領の方針を踏まえて吉野ヶ里遺跡や板付遺跡を取り上げるようになりました。

登呂遺跡が教科書から消えたのは、価値がなくなったからではなく、教育の目的や重点が変化したためなのです。

どちらの遺跡も弥生時代を理解するうえで欠かせない存在であることに変わりはありません。

項目登呂遺跡吉野ヶ里遺跡
所在地静岡県静岡市佐賀県神埼市・吉野ヶ里町
時代弥生時代後期弥生時代全期(約700年間)
主な特徴水田跡・高床倉庫環濠集落・階級社会
わかること稲作集落の日常生活争いと政治的統合
特別史跡指定1952年2001年

登呂遺跡の発見から現在までの歴史

登呂遺跡は発見から80年以上の歴史を持ち、その間に様々な出来事がありました。

戦時中の発見から戦後の本格調査、そして近年の再発掘まで、遺跡の歩みを時系列で振り返ってみましょう。

1943年:戦時中に偶然発見された経緯

1943年1月、軍需工場建設のための工事中に、水田の地下約1メートルから多くの木製品や土器が出土しました。

丸木舟なども発見され、弥生時代の集落跡であることが判明します。

同年7月11日には毎日新聞が遺跡の発見を報道し、学界の注目を集めました。

住友家の当主である住友吉左衛門から発掘費用として1万円もの大金が寄付され、8月には第一次発掘調査が実施されています。

しかし戦時中という状況から、調査はわずか2週間ほどの短期間で終了せざるを得ませんでした。

1945年:静岡大空襲で出土品の多くが焼失

1945年6月20日、B-29爆撃機137機による静岡大空襲が静岡市を襲いました。

発見地の軍需工場に保管されていた出土品は焼失してしまいます。

県立図書館に集められていた遺物の一部、発掘調査の記録、印刷中だった報告書の原稿なども失われました。

しかし、当時の図書館長であった加藤忠雄氏がとっさの判断で出土品の一部を水槽に入れ、焼失から守り抜いています。

加藤氏が命がけで守った高杯、弓、下駄などの出土品は、現在も登呂博物館に展示されています。

1947年〜1950年:戦後の本格的な発掘調査と市民参加

1945年に戦争が終わると、登呂遺跡の本格的な発掘調査への機運が高まりました。

1947年から1950年にかけて、第二次から第五次までの大規模な発掘調査が実施されています。

調査には考古学者だけでなく、地理学、動植物学、建築学など各分野の専門家が参加しました。

特筆すべきは、研究者だけでなく多くの学生や一般市民がボランティアとして発掘作業に加わったことです。

この「開放的な発掘調査」の手法は日本初の試みであり、その後の考古学調査のモデルとなりました。

調査の結果、12棟の住居、2棟の高床倉庫、8ヘクタールの水田跡が発見され、弥生時代後期の集落の全体像が明らかになったのです。

1999年〜2003年:再発掘調査で祭殿など新発見

1980年代以降、全国各地で弥生時代の遺跡の発掘調査が進み、新たな研究成果が蓄積されていきました。

こうした状況を受けて、1999年から2003年にかけて登呂遺跡の再発掘調査が行われます。

調査の結果、登呂遺跡が弥生時代後期から古墳時代まで続いた遺跡であることが判明しました。

住居や高床倉庫のほかに祭殿が建てられていたこと、住まいの区域と水田の区域の境に水路が作られていたことなど、新しい事実が次々と明らかになっています。

これらの発見に基づき遺跡の再整備が行われ、2010年には現在の登呂博物館がリニューアルオープンしました。

教科書から消えても登呂遺跡が愛され続ける理由

教科書での扱いが減っているにもかかわらず、登呂遺跡は今も多くの人々に親しまれています。

その背景には、地域との深いつながりや、体験を通じた魅力発信への取り組みがあります。

地域との密着と体験型イベントの魅力

登呂遺跡の大きな特徴は、発見当初から地域との強いつながりがあることです。

戦後の発掘調査では、研究者だけでなく地元の学生や市民が一丸となって作業に参加しました。

現在も遺跡公園は24時間開放されており、ジョギングを楽しむ人、犬の散歩をする人、子どもを連れた家族連れなど、日常的に多くの市民が訪れています。

毎年8月に開催される「とろムラ体験フェスティバル」は、登呂遺跡の魅力を伝える代表的なイベントです。

弓矢や火おこし、丸木船、ミニチュア土器作りなどの体験ができ、2023年の発掘80周年記念事業では多くの参加者で賑わいました。

小学校の社会科見学や稲作体験で子どもたちの記憶に残す

教科書で登呂遺跡を知る機会が減った現在、遺跡側は実際に訪れてもらうことで認知度を高める工夫をしています。

登呂博物館には毎年、県内を中心に1万人以上の小中学生が学校行事で訪れています。

遺跡内にある復元水田は現在も使用可能で、近隣の小学校と協力して稲刈り体験などが行われています。

体験活動では単に道具を使うだけでなく、「その道具がどのように使われたのか」「なぜこのイベントを開催しているのか」といったクイズを出し、子どもたちに考えさせる工夫もしています。

教科書で知るよりも、実際に体験することで子どもたちの記憶に深く残るという考え方です。

SNSや広報活動で全国へ魅力を発信

登呂博物館では、より多くの人に遺跡を知ってもらうための広報活動にも力を入れています。

県内の観光客に対しては静岡鉄道の車内広告を活用し、県外からの観光客にはJRの車内広告を使うなど、ターゲット層に合わせた工夫を行っています。

自動車で訪れる人向けには、高速道路のサービスエリアへのチラシ配布も積極的に実施しています。

若い世代に向けてはX(旧Twitter)などのSNSも活用しており、博物館のイメージキャラクター「トロベー」や、水田にやってくるカモの写真などを投稿しています。

担当者は「動物のかわいい写真は嫌いな人があまりいないので、登呂遺跡に関心を持つ入り口になってくれたら」と語っています。

稲刈りイベントでは県外からの参加者も増えており、京都から登呂遺跡のイベント目当てに訪れた人もいるなど、広報活動の効果は確実に表れています。

登呂遺跡に関するよくある質問

登呂遺跡について、多くの方が疑問に思う点をまとめました。

訪問を検討している方や、さらに詳しく知りたい方の参考になれば幸いです。

登呂遺跡の発見者は誰?

登呂遺跡の発見に関わった人物は複数います。

1943年に軍需工場建設中に出土品を発見したのは工事関係者ですが、その発見を全国に伝えたのは国民学校教諭の安本博氏と毎日新聞記者の森豊氏です。

また、遺跡全域の測量と遺物の収集を行ったのは静岡市復興局長の阿部喜之丞氏でした。

発掘費用の寄付を取り付けたのは県立図書館長の加藤忠雄氏であり、多くの人々の努力によって登呂遺跡の調査が実現したのです。

登呂遺跡は今も見学できる?入場料や開園時間は?

登呂遺跡は現在も見学可能です。

遺跡公園は24時間オープンしており、入場料は無料となっています。

隣接する登呂博物館の開館時間は9時から16時30分までで、休館日は月曜日(祝日の場合は翌日)、祝日の翌日、年末年始(12月26日〜1月3日)です。

博物館への入館自体は無料ですが、常設展や企画展の観覧には別途料金がかかります。

詳しい料金については登呂博物館の公式サイトで確認することをおすすめします。

登呂遺跡ではどんな体験ができる?

登呂遺跡では、弥生時代の暮らしを体感できる様々な体験プログラムが用意されています。

火おこし体験では、摩擦熱を利用して実際に火を起こす弥生時代の技術を学ぶことができます。

そのほかにも、弓矢体験、田下駄を履いて水田を歩く体験、石包丁を使った稲刈り体験、ミニチュア土器作りなど多彩なプログラムがあります。

貫頭衣を着たボランティアスタッフが案内してくれるため、初めての方でも楽しみながら学ぶことができるでしょう。

体験プログラムの詳細や開催日程は、事前に登呂博物館に問い合わせることをおすすめします。

まとめ:登呂遺跡はなぜ教科書から消えたのか

  • 登呂遺跡が教科書から消えた最大の理由は、吉野ヶ里遺跡など他の遺跡の発掘により弥生時代の研究が大きく進展したため
  • 学習指導要領が「農耕の始まり」だけでなく「むらからくにへの変化」の理解を求めるようになった
  • 登呂遺跡は1943年に軍需工場建設中に発見された、約2000年前の弥生時代後期の集落跡である
  • 日本で初めて弥生時代の水田跡が発見され、「弥生時代=水田稲作」のイメージを定着させた
  • 戦後日本考古学の出発点となり、学際的な発掘調査の手法を確立した
  • 1952年に弥生時代の遺跡として初めて国の特別史跡に指定された
  • 登呂遺跡は「稲作集落の暮らし」、吉野ヶ里遺跡は「争いと階級社会」がわかる遺跡という違いがある
  • 静岡大空襲で多くの出土品が焼失したが、図書館長の機転により一部は守られた
  • 現在も体験型イベントや社会科見学を通じて、教科書によらない形で子どもたちに魅力を伝えている
  • SNSや広報活動により県外からの来訪者も増加しており、地域に愛される遺跡として存続している
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