女優として数多くのドラマや映画に出演し、幅広いファン層に支持されている小芝風花さん。
実は、芸能界に入る前に本格的なフィギュアスケート選手として活躍していたことをご存知でしょうか。
単なる「習い事」レベルではなく、全国の有望選手が集まる合宿に選抜されるほどの実力を持ち、オリンピックを夢見て練習に明け暮れた日々がありました。
成長期に2度の手術を乗り越え、仲間と切磋琢磨し、14歳で芸能界への転身を決意するまでの軌跡には、今の小芝さんの女優としての表現力や精神的な強さの源泉が詰まっています。
この記事では、小芝風花さんのフィギュアスケートにまつわる経歴を、競技の詳細から引退の理由、現在の活動との関わりまで、余すところなく掘り下げていきます。
小芝風花はどんなフィギュアスケーター選手だったのか?
スケートを始めたきっかけは荒川静香の金メダル
小芝風花さんがフィギュアスケートと出会ったのは、2006年のことです。
トリノ冬季オリンピックで荒川静香さんが日本女子として初めての金メダルを獲得したあの瞬間、日本中がフィギュアスケートに熱狂しました。
当時、小芝さんは器械体操を習っていました。
荒川さんの金メダルをきっかけに、練習の見学に来ていたお母さんたちのあいだで「風花ちゃんはフィギュアスケートに向いていそう」という声が上がり、それを聞いた小芝さんの母親が娘を連れてリンクへ足を運んだのが最初のきっかけでした。
初めて氷の上に立った小芝さんは、怖がることもなくスイスイと滑り始めたといいます。
「体操よりもスケートをやりたい」と自らお母さんにお願いし、正式にフィギュアスケートの練習をスタート。
最初に担当してくれた先生がとても優しく、「先生と一緒に滑ることが楽しい」という感覚が、小芝さんをスケートの世界へ引き込んでいきました。
所属クラブと師事したコーチについて
小芝さんが所属していたのは、大阪・臨海スポーツセンターを拠点とする「臨海フィギュアスケートクラブ」です。
堺市立浅香山中学校に在学していた時期も含め、小学3年生から中学2年生まで、このクラブで腕を磨き続けました。
最初に師事したのは小関悦也コーチで、スケートの楽しさを教えてくれた恩師として小芝さん自身が語っています。
その後、平池大人コーチのもとで本格的に競技へと取り組んでいきました。
この平池コーチのもとには、後に国際舞台で活躍するトップスケーターたちも集まっており、小芝さんはそうした才能ある仲間と肩を並べながら練習していました。
衣装はすべて母親の手作りだったというエピソードも伝わっており、家族全員でスケートを応援する環境の中で小芝さんは競技者として成長していきました。
バッジテスト7級とはどのレベルなのか
フィギュアスケートのバッジテストとは、日本スケート連盟が定めた技術の習熟度を測る試験制度です。
1級から始まり、級が上がるにつれてより高度な技術が求められる仕組みになっています。
小芝さんはこのバッジテストで7級を取得しています。
7級という水準がどれほどのものかというと、全日本選手権の上位大会や主要な競技会への出場資格を持つレベルに相当します。
一般的なフィギュアスケートの愛好家と競技選手のあいだには大きな差がありますが、7級はまさに「本格的な競技選手」として認められる水準です。
ダブルアクセルやトリプルジャンプを複数習得していることが求められ、スピン・ステップなど総合的な技術も評価対象となります。
小芝さん自身は「ジャンプばかり練習していた」と振り返っていますが、それでもこの高い水準に達していたことが、競技者としての実力を裏付けています。
小芝風花のフィギュアスケートにおける実績と成績
西日本ジュニア選手権での成績はどのくらい?
小芝風花さんはフィギュアスケートの「西日本ジュニア選手権」で8位入賞という実績を持っています。
西日本エリアは大阪・京都・兵庫をはじめとする関西圏の強豪選手が集まる激戦区で、そこで8位に入るということは、相応の実力と練習量を積み重ねた証といえます。
小芝さん自身もこの成績を誇りに思っており、2025年2月にNHKの「あさイチ」に出演した際にもこのエピソードを振り返りました。
当時の目標は「オリンピック出場」。
今から考えると夢のような話に聞こえるかもしれませんが、西日本ジュニアで8位に入る実力があれば、決して絵空事ではない目標として周囲も本人も捉えていたことが伝わってきます。
メキメキと実力をつけていった背景には、特にジャンプへの情熱と、コーチへの信頼、そして家族のサポートがありました。
全日本ノービス選手権への出場とアイスダンス挑戦
競技への本格的な取り組みを示す記録として、2011年に開催された「第15回全日本フィギュアスケートノービス選手権大会」への出場があります。
小芝さんはこの大会のアイスダンス種目に出場し、好成績をおさめたことが記録されています。
全日本ノービス選手権は、将来有望な若手選手が競い合う全国大会で、ここに出場できること自体が選手としての実力の証明となります。
シングルに加えてアイスダンスにも挑戦していたことは、小芝さんのスケートへの貪欲さを物語っています。
アイスダンスはパートナーとの息の合った表現力が求められる種目で、シングルとはまた異なる難しさがあります。
後に芸能界へ転身した際も「アイスダンスだけでも東京で続けられないか」と考えていたほど、この種目への思い入れは深いものでした。
野辺山合宿に選抜された経緯とその意味
フィギュアスケートの世界で「野辺山合宿」と聞けば、選手や関係者なら誰もが知っている特別な場があります。
正式名称は「全国有望新人発掘合宿」といい、日本全国から将来性が高いと認められた選手のみが参加できる登竜門的な合宿です。
小芝さんはこの野辺山合宿への参加経験を持っています。
全国から選抜された有望選手が一堂に会する場ですから、西日本エリアだけでなく全国区での実力評価を受けていたことになります。
「当時は目立つことが苦手で、みんなで先生の後ろについてスケートしていた」と小芝さんは当時を振り返っていますが、人見知りな性格をよそに、その実力は全国で認められていました。
この合宿への参加経験こそが、小芝さんのスケート歴が「本格的な競技選手」のものであったことを最も端的に示しています。
小芝風花と現役トップ選手との意外な同期関係
同じコーチのもとで練習していた仲間とは誰か
小芝さんが師事した平池大人コーチのもとには、後に日本のフィギュアスケート界を代表するトップ選手たちも集まっていました。
小芝さんと同じ時期にこのコーチのもとで練習していたのが、友野一希選手と山本草太選手です。
二人とも現在は全日本選手権の常連であり、グランプリシリーズや国際大会でも活躍する、日本男子フィギュア界の主力選手です。
小芝さんにとっては「昔の仲間」であり、練習の合間に一緒に鬼ごっこをして遊んでいた存在でもありました。
「当時は小さくてかわいかった」と小芝さんが語る二人が、後に世界のトップで戦う選手になっていくとは、当時の誰もが想像していなかったかもしれません。
友野一希・山本草太との幼少期の思い出
友野一希選手とは1歳差の間柄で、小芝さんが「最近テレビで見て1歳差だったんだと衝撃を受けた」と語るほど、年齢の近い仲間でした。
練習の合間には氷の上でみんなで鬼ごっこをして遊んでいたといい、厳しいトレーニングの中にも子どもならではの楽しい時間が流れていたようです。
山本草太選手についても、「すごくかわいかった」と小芝さんが語っており、幼い頃の記憶が今も鮮明に残っていることが伝わってきます。
それぞれが別々の道を歩んだ後、二人は日本を代表するスケーターとして成長し、小芝さんは女優として活躍するようになりました。
同じ先生に教わり、同じ氷の上で笑い合っていた子どもたちが、別々の世界でそれぞれの夢をつかんでいくというストーリーは、多くのファンの心を動かしています。
10年以上ぶりの再会が実現した国別対抗戦2023
2023年4月、小芝さんにとって感慨深い再会が訪れました。
テレビ朝日系で放送された「世界フィギュアスケート国別対抗戦2023」のエキシビションにゲストとして出演した際、友野一希選手と10年以上ぶりに再会したのです。
子どもの頃に肩を並べて練習していた仲間が、今や国際大会に出場する一流選手として目の前で滑る姿を見る。
その感動は、単なるスポーツ観戦とは異なる、特別なものだったはずです。
小芝さんは自身のインスタグラムでこの再会を報告し、「小さい頃一緒に遊んでいた仲間が大きく成長して滑る姿を見ることが楽しみ」とコメントしました。
当日は友野選手ら出場選手へのインタビューも行い、元スケーターならではの視点でフィギュアスケートの魅力を伝える役割を担いました。
フィギュアスケート時代に経験した2度の手術と苦難
成長期に発症したオスグッド・シュラッター病とは
小芝さんが競技者として充実した日々を送る中、身体に異変が生じ始めます。
発症したのは「オスグッド・シュラッター病」という疾患です。
これは成長期の子どもに起こりやすいスポーツ障害の一つで、膝の下の骨(脛骨粗面)が激しい運動によって引き起こされる牽引力の繰り返しで炎症を起こし、痛みや腫れが生じます。
フィギュアスケートはジャンプや着地の衝撃が膝に集中するため、成長途上の選手が発症しやすい環境にあります。
小芝さんの場合は両膝に症状が出ており、練習を続けながらも痛みと戦う日々が続きました。
特にジャンプを好んで練習していた小芝さんにとって、膝の痛みは直接的に競技生活を脅かすものでした。
成長期ならではの難しさが、競技の継続を困難にしていったのです。
両膝2回の手術とリハビリで直面した壁
症状の悪化により、小芝さんは手術を選択します。
最初の手術では症状が重い方の膝の軟骨を除去し、もう一方の膝はドリルで穴を開けて出血させることで固める処置を行いました。
入院期間は3週間にわたり、ギプスで固定された状態が続きました。
その後、もう一方の膝にも痛みが再発し、最終的に両膝で2回の手術を経験することになります。
主治医からは「成長期のものだから、何年か経てば痛みは落ち着く。
女の子だし、手術で傷をつけない方がいい」と言われました。
しかし小芝さんは「今、練習したい。
今できないと意味がない」と頑固にも手術を希望したといいます。
退院後にギプスを外した際、スケーターとして鍛えられた筋肉質な脚が腕ほどの細さになっていたことは、母親も含め周囲に大きな衝撃を与えました。
「復帰は無理」と言われた状況からの克服
術後のリハビリを経てリンクに戻った小芝さんを待っていたのは、厳しい現実でした。
極端に筋力が落ちた脚を見た周囲の保護者たちから「たぶん復帰は無理だろう」と思われていたことを、後に小芝さん自身が明かしています。
それまで練習できていた技が身体についてこない。
頭の中にはできていた頃のイメージが鮮明に残っているのに、身体が動かない。
そのギャップと葛藤しながら、小芝さんはスケーティングから少しずつ取り組みを再開していきました。
負けず嫌いな性格が功を奏し、周囲の予想を覆す速さで回復を遂げていきます。
「へこたれない性格だし、自分では割とすぐ元に戻って練習できるようになった」と小芝さんは語っています。
2度の手術と長いリハビリを乗り越えた経験は、後の女優活動における精神的な粘り強さにも通じているといえるでしょう。
小芝風花がフィギュアスケートを引退した本当の理由
芸能界オーディション応募のきっかけと浅田真央への憧れ
小芝さんが芸能界のオーディションに応募したきっかけは、フィギュアスケートと切り離せない話です。
ある日、浅田真央さんがスケートリンクで滑りながらCMに出演している映像を見た小芝さんが、「こんなCMに出てみたいな」とぽつりと言葉を漏らしました。
その一言をたまたま耳にしていたお姉さんが「それならオーディションに応募してみたら?」と勧め、話が動き始めます。
本人は軽い気持ちで応募したと語っており、当初はスケートをやめるつもりなど全くなかったといいます。
フィギュアスケートへの憧れが、結果として芸能界への扉を開くことになった。
この偶然の連鎖は、小芝さんの人生を大きく変えた転換点として、今も語り継がれています。
約3万5千人の中からグランプリを受賞した転機
2011年に行われた「ガールズオーディション2011」への応募者は、約3万5千人に上りました。
その中から頂点に立ったのが、当時14歳の小芝風花さんです。
グランプリの受賞は11月のことでした。
所属事務所の会長からは「12月には上京してほしい」という要望が伝えられ、大阪から東京へと生活拠点を移す決断を迫られることになります。
当初は「シングルは難しくても、アイスダンスなら東京のコーチに習えるかもしれない」と、スケートとの両立を模索していた小芝さん。
しかし現実は、そう甘くはありませんでした。
スケートと芸能活動の両立を断念した決断の背景
東京での芸能活動がスタートすると、お芝居やダンスのレッスンが週6日という過密スケジュールが待っていました。
フィギュアスケートも毎日の練習が欠かせない競技です。
「器用なタイプじゃないので、一つに集中しないと厳しい」と感じた小芝さんは、徐々に芸能活動を本業として定めていく気持ちが固まっていきました。
一度で一気に決断したわけではなく、オーディションの審査が進むにつれて「たくさんの人の中から選んでいただいている」という気持ちが芽生え、目の前の仕事に真摯に向き合ううちに「この世界でやっていきたい」という思いが自然と強くなっていったといいます。
14歳での引退は、あくまで前を向いた決断でした。
スケート経験は女優としての活動にどう活きているのか
身体表現力の高さがスケートで培われたと評価される理由
現在の小芝さんの女優としての評価の中に、「身体を使った表現の豊かさ」があります。
舞台「オーランドー」でロシアの姫君・サーシャ役を演じた際、演出を手がけた白井晃氏は「スケートで鍛えられていたから、身体を使った表現の経験値が積み重ねられていた」と語りました。
フィギュアスケートは技術だけではなく、音楽に合わせた表現や感情の発露、身体の細部に至るコントロールが求められる競技です。
幼少期からそうした訓練を積んでいた小芝さんにとって、舞台や映像の中で身体を使って感情を表現することは、自然と身に染みついた能力だったのかもしれません。
競技をやめた後も、スケートで育まれた感覚は女優としての血肉になっていることが、業界関係者からの評価にも表れています。
元スケーター役で共演した現役選手との比較で感じた葛藤
スケートの経験が必ずしもプラスに働くだけではありませんでした。
テレビドラマ「スケート靴の約束」(2013年)で元フィギュアスケーター役を演じた際、小芝さんは悔しい思いをすることになります。
「2年前までできていたことができなくなっていて、ショックだった」と後のインタビューで明かしています。
大人の身体になったことで重さやバランスが変わり、以前のように身軽にジャンプを飛ぶことができなくなっていました。
共演した本田望結さんは当時の現役スケーターで、小芝さんは憧れられる存在の役を演じる立場でした。
時間ができるたびにリンクへ通い練習を重ねましたが、「納得できるレベルには全然戻らなかった」と本人も認めています。
頭の中にある理想と身体の現実のギャップ、これはスケート経験があるからこそ感じる葛藤でした。
フィギュアスケート番組へのゲスト出演が続く理由
現在も小芝さんはフィギュアスケート関連の番組やイベントに継続的に起用されています。
2023年の国別対抗戦へのゲスト出演、フレンズオンアイス2024での関与など、芸能人としてだけでなく「元競技選手」という立場から語れる深みが重宝されているのです。
「ジャンプの軸がきれい」「スピードに乗ったまま跳ぶところが好き」といった視点は、スケートを実際に競技として経験した人間にしか語れないものです。
一般のMCや芸能人が「きれいですね」と感嘆する場面で、小芝さんは具体的な技術的視点からコメントを添えられる。
それが、フィギュアスケート関連の番組で繰り返し起用される理由の一つといえるでしょう。
小芝風花が語るフィギュアスケートへの愛情と注目ポイント
今も「大好き」と公言する憧れのスケーター
小芝さんが「大好き」と公言してやまないスケーターが、鈴木明子さんです。
「表現力とダイナミックさがあって、スピードに乗ったままジャンプするところがすごく好き」と語り、現役時代には鈴木さんのようなジャンプを目指して練習に取り組んでいたといいます。
競技を離れた現在も、鈴木さんへの愛情は変わっていません。
スケートを始めるきっかけを作った荒川静香さん、芸能界への扉を開くきっかけになった浅田真央さんと並び、小芝さんの人生に大きな影響を与えたスケーターたちの存在は、今日に至るまでその輝きを失っていません。
現役選手のジャンプや表現力への元選手ならではの視点
フィギュアスケートを観戦する際の小芝さんの視点は、確かに一般の視聴者とは異なります。
坂本花織選手については「軸がきれい」という技術的な言葉でジャンプを評価しており、見ているポイントが明確です。
「私の現役時代はダブルアクセルとトリプルジャンプが数種類跳べたら全日本に進めたけれど、今はトリプル全種類が当たり前になっている」という比較も、実際に競技を経験した人間だからこそ実感を伴って語れるものです。
男子が4回転を当たり前に跳ぶようになった時代の変化を「怖い(笑)」と表現するあたりに、選手目線の感覚がにじみ出ています。
競技の進化を肌で感じながら語れる元選手としての立場が、小芝さんをフィギュアスケート界に欠かせない存在にしています。
スケーター時代の動画・写真はどこで見られるのか
小芝さんの選手時代の映像や写真に関心を持つファンは少なくありません。
2023年に国別対抗戦へのゲスト出演が発表された際には、選手時代のスケートウェア姿の写真が複数メディアで公開され、大きな反響を呼びました。
競技中の動画については公式に広く公開されているものは限られており、スポーツ専門誌やテレビ番組の特集の中で断片的に紹介される形が多いのが現状です。
テレビ朝日の国別対抗戦関連放送やNHKの「あさイチ」などの出演時に当時の映像が紹介されることがあるため、こうした番組の関連コンテンツをチェックするのが確認の近道といえます。
選手時代の小芝さんの姿は、女優として活躍する現在の姿と重ね合わせることで、その歩みの重さをより深く感じさせてくれます。
まとめ:小芝風花のフィギュアスケート経歴と引退の真相
- 小芝風花さんは2006年のトリノ五輪で荒川静香さんが金メダルを獲得したことを機に、器械体操からフィギュアスケートへ転向した
- 大阪・臨海フィギュアスケートクラブに所属し、平池大人コーチのもとで本格的に競技に取り組んだ
- バッジテスト7級を取得しており、これは大きな競技会への出場資格を持つ本格的な競技選手レベルに相当する
- 西日本ジュニア選手権で8位入賞を果たし、全国の有望選手が集まる野辺山合宿にも選抜された実力者だった
- 全日本フィギュアスケートノービス選手権にアイスダンス種目で出場するなど、シングルとアイスダンスを並行して取り組んでいた
- 成長期にオスグッド・シュラッター病を発症し、両膝で計2度の手術と長期入院を経験したが、負けず嫌いの精神で競技に復帰した
- 同じコーチのもとで練習した仲間には友野一希選手と山本草太選手がおり、2023年に10年以上ぶりの再会を果たした
- 「浅田真央さんのCMに出てみたい」という一言がきっかけでオーディションに応募し、約3万5千人の中からグランプリを受賞して芸能界入りした
- 週6日のレッスンと毎日練習が必要なスケートの両立が難しいと判断し、14歳で競技引退を決断した
- スケートで培われた身体表現力は現在の女優活動にも活かされており、業界関係者からも高く評価されている

