「紀州のドン・ファン」という異名で世間を騒がせた資産家、野崎幸助氏。
彼の名は、その莫大な資産や華やかな女性遍歴、そして謎に満ちた死によって、多くの人の記憶に刻まれています。
しかし、「一体なぜ彼はそれほどまでの金持ちになれたのか?」という疑問を持つ方も多いのではないでしょうか。
この記事では、野崎幸助氏が裸一貫から数十億円もの資産を築き上げた歴史を紐解き、彼の人物像、成功の哲学、そして注目される事件の最新情報まで、あらゆる角度から徹底的に解説します。
この記事を読めば、「紀州のドンファンがなぜ金持ちなのか」その全ての答えがわかります。
「紀州のドン・ファン」こと野崎幸助とはどんな人物?

貧しい7人兄弟の三男という生い立ち
「紀州のドン・ファン」として知られる野崎幸助氏は、1941年(昭和16年)に和歌山県田辺市で7人兄弟の三男として生まれました。
その出自は裕福とは程遠く、地元の中学校を卒業後はすぐに働き始めました。
鉄屑拾いや酒造メーカーの訪問販売員など、様々な仕事を経て、裸一貫から億単位の資産を築き上げた、まさに叩き上げの人物です。
なぜ「紀州のドン・ファン」と呼ばれるようになったのか?
野崎幸助氏が「紀州のドン・ファン」と呼ばれるようになった理由は、その類まれな女性遍歴にあります。
自著によれば、これまでに4,000人の美女に30億円以上を貢いだと自称しており、その奔放な生き様が、伝説的な色男「ドン・ファン」になぞらえられました。
和歌山県(紀州)を拠点としていたことから、「紀州のドン・ファン」という異名が定着したのです。
美女4000人に30億円を貢いだ?破天荒な女性遍歴と結婚観
野崎氏の女性に対する情熱は並々ならぬものでした。
2016年には、当時27歳のモデルの女性に現金や宝石類など合計6,000万円相当を盗まれる事件が発生しましたが、「6,000万円なんて自分にとっては紙くず」と発言し、世間を驚かせました。
2018年2月には、55歳年下の女性Zと結婚。
これは月100万円を支払うという契約に基づく婚姻だったとされ、彼の独特な結婚観がうかがえます。
紀州のドンファンはなぜ金持ちになった?3つの事業で築いた資産形成の歴史

第一の成功:コンドームの訪問販売で大金を掴む
野崎氏が資産家への第一歩を踏み出したのは、コンドームの訪問販売でした。
中学校卒業後、いくつかの職を転々としましたが、当時はまだ珍しかったコンドームの訪問販売事業で大きな成功を収めます。
夫が留守中の家庭を訪問し、主婦を相手に「実演販売」までするという独特の手法で、当時のサラリーマンの月収の3倍以上を稼ぎ出したといいます。
この事業で得た資金が、後の飛躍の元手となりました。
第二の成功:金融業(金貸し)への転身で資産を拡大
コンドーム販売で得た資金を元手に、野崎氏は金融業、いわゆる「金貸し」の世界へと進出します。
ある「師匠」のアドバイスを受け、消費者金融や不動産業を手がける会社「アプリコ」を設立。
高度経済成長の波にも乗り、事業は順調に拡大し、彼の資産を数十億円規模にまで押し上げました。
第三の成功:投資家として数十億円の資産家へ
金融業で確固たる地位を築いた後、野崎氏は株式投資などにも乗り出します。
午前3時に起床して米国株式市場をチェックするのが日課だったといい、投資家としてもその商才を発揮しました。
複数の事業を成功させることで、彼は一代で誰もが羨む大金持ちへと上り詰めたのです。
総資産は13億円以上?野崎幸助氏の具体的な資産額と使い道
遺産総額は具体的にいくらだったのか?
野崎氏が亡くなった後、その遺産総額は約13億5,000万円にのぼると報道されました。
これには預貯金や有価証券が含まれており、その他にも不動産や車など、数多くの資産があったとされています。
総資産は50億円ともいわれ、その規模の大きさがうかがえます。
「100万円は紙くず」?常識外れの金銭感覚
野崎氏の金銭感覚は、常人とはかけ離れたものでした。
自宅には100万円の札束がいくつも転がっていたといい、取材に訪れた記者を驚かせたというエピソードも残っています。
前述の6,000万円の窃盗被害の際にも「紙くずみたいなもん」と発言するなど、彼にとって大金は日常の一部だったのかもしれません。
遺産の行方は?「全財産を市に寄付する」遺言書を巡る裁判の現状
13億円を超える遺産の行方も大きな注目を集めました。
野崎氏の死後、「全財産を田辺市にキフする」と書かれた遺言書が発見されます。
この遺言書の有効性を巡り、親族が田辺市を相手取って無効を求める裁判を起こしました。
2024年6月、和歌山地裁は遺言書を「有効」とする判決を言い渡しましたが、親族側はこれを不服として控訴しており、遺産の行方は依然として確定していません。
大富豪から学ぶ!野崎幸助氏の成功哲学と意外な人物像

成功の秘訣①:午前3時起きの徹底した仕事ルーティーン
野崎氏の成功を支えたのは、徹底した自己管理能力でした。
彼は毎朝3時に起床してアメリカの株式市場をチェックし、午前中には仕事を終え、午後は歓楽街へ出かけるというルーティーンを長年続けていたといいます。
ダラダラと仕事をせず、集中して働き、しっかりと遊ぶ。
このメリハリのある生活が、彼の成功の原動力の一つだったと考えられます。
成功の秘訣②:「結果への執着」が生んだ常識破りの発想力
野崎氏は、目標を達成するためなら常識にとらわれない発想ができる人物でした。
彼の自伝には、キャビンアテンダントと仲良くなるために考え出した奇抜なアイデアなどが記されています。
目的達成のためにはいくらコストをかけるかを計算し、普通の人では思いつかないような方法を実行する。
この「結果への執着」と柔軟な発想力が、ビジネスの世界でも大いに役立ったことでしょう。
成功の秘訣③:自伝から見える「大金持ちに見えない謙虚さ」
破天荒なイメージとは裏腹に、野崎氏の自伝からは謙虚な人柄がうかがえます。
大金持ちにありがちな自慢話は少なく、自身の容姿へのコンプレックスや女性に関する失敗談などを包み隠さず、ユーモラスに語っています。
この飾らない姿勢が、彼の人間的な魅力の一つだったのかもしれません。
【事件の真相】なぜ亡くなった?急性覚醒剤中毒事件の概要と裁判の最新情報
事件発生から元妻Zの逮捕・起訴までの経緯
2018年5月24日、野崎幸助氏は和歌山県田辺市の自宅で倒れているのが発見され、その場で死亡が確認されました。
死因は急性覚醒剤中毒。
当初から事件性が疑われ、捜査が進められました。
事件発生から約3年後の2021年4月、当時妻であったZが殺人および覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕・起訴されました。
死因は急性覚醒剤中毒|摂取ルートの謎
司法解剖の結果、野崎氏の体内からは致死量を超える覚醒剤が検出されました。
しかし、腕などに注射痕はなく、毛髪からも覚醒剤成分が検出されなかったため、口から摂取させられた「経口摂取」と推測されています。
どのようにして致死量の覚醒剤を気づかれずに飲ませたのか、その具体的な方法は裁判でも大きな争点となりました。
【2024年最新】第一審は無罪判決、検察が控訴し大阪高裁へ
元妻Zの裁判は、2024年9月から裁判員裁判として始まりました。
検察側は遺産目当ての犯行として無期懲役を求刑しましたが、弁護側は状況証拠だけでは不十分だと無罪を主張。
2024年12月12日、和歌山地方裁判所は「元妻が殺害したとするには合理的な疑いが残る」として、Zに無罪判決を言い渡しました。
しかし、検察側はこの判決を不服として同月24日に大阪高等裁判所に控訴しており、裁判は今後も続くことになります。
よくある質問:紀州のドン・ファンに関する疑問に答えます
Q. 結局、事件の真犯人は誰なのですか?
2024年12月現在、元妻Zは第一審で無罪判決を受けましたが、検察が控訴したため裁判はまだ続いています。
そのため、法的には事件の真犯人が誰であるかは確定していません。
今後の高等裁判所の判断が注目されます。
Q. 元妻Z(須藤早貴被告)はその後どうなりましたか?
元妻Z(須藤早貴被告)は、2024年12月12日に和歌山地裁で無罪判決を言い渡されました。
しかし、検察が控訴したため、彼女の立場はまだ確定していません。
今後は大阪高等裁判所で審理が行われることになります。
Q. 野崎幸助氏に子供はいましたか?
野崎幸助氏に法律上の子供はいませんでした。
そのため、法定相続人は配偶者である妻と、彼の兄弟姉妹となります。
遺言書が有効か無効かによって、遺産の分配が大きく変わるため、裁判の行方が注目されていました。
Q. 野崎幸助氏の自伝は今でも読めますか?
はい、読むことができます。
野崎幸助氏は生前に『紀州のドン・ファン 美女4000人に30億円を貢いだ男』などの自伝を講談社から出版しています。
これらの書籍は、電子書籍やオンライン書店、中古書店などで現在も入手可能です。
彼自身の言葉で語られる人生は、事件の報道とはまた違った一面を知る上で貴重な資料となるでしょう。
まとめ:紀州のドンファンがなぜ金持ちになったのかを総括
- 野崎幸助氏は「紀州のドン・ファン」と呼ばれた和歌山の資産家である
- 貧しい家庭に生まれ、裸一貫から数十億円の資産を築いた
- 金持ちになった理由はコンドーム販売、金融業、投資の成功にある
- 最初の成功は、コンドームの訪問販売で得た資金である
- その後、金融業(金貸し)で事業を拡大し、資産を増やした
- 晩年は投資家としても活動し、資産をさらに増やした
- 推定される遺産総額は13億円以上である
- 2018年に急性覚醒剤中毒で死亡し、事件は今も裁判中である
- 元妻Zは殺人容疑で起訴されたが、第一審では無罪判決が下された
- 彼の成功哲学には、徹底したルーティーンや謙虚な人柄があったとされる